福島地方裁判所いわき支部 平成元年(ワ)196号 判決 1992年1月31日
原告
箱崎俊之
同
箱崎弘美
同
駒崎敏
右三名訴訟代理人弁護士
薗部伯光
被告
大内康一郎
同
大内カツヨ
右両名訴訟代理人弁護士
佐々木健次
主文
一 被告らは各自
1 原告箱崎俊之に対し金七九万二五五七円及び内金六九万二五五七円に対する昭和六二年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員
2 原告箱崎弘美に対し金二五四万八〇三〇円及び内金二二九万八〇三〇円に対する昭和六二年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員
3 原告駒崎敏に対し金一一万六六〇〇円及び内金九万六六〇〇円に対する昭和六二年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員
をそれぞれ支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、原告箱崎俊之に生じた分についてはこれを三分し、その一を同原告、その余を被告らの各負担とし、原告箱崎弘美に生じた分についてはこれを八分し、その三を同原告、その余を被告らの各負担とし、原告駒崎敏に生じた分についてはこれを一〇分し、その九を同原告、その余を被告らの各負担とし、被告らに生じた分は全部被告らの負担とする。
四 この判決は第一項につき仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
一被告らは各自原告箱崎俊之に対し、二七四万三七四六円及び内二四四万三七四六円に対する昭和六二年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二被告らは各自原告箱崎弘美に対し、四〇四万二六七〇円及び内二四四万三七四六円に対する昭和六二年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三被告らは各自原告駒崎敏に対し、一二〇万六〇〇〇円及び内一〇五万六〇〇〇円に対する昭和六二年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、昭和六二年一月四日午前零時三五分ころ、いわき市平字田町一番地先道路において発生した交通事故(被告大内康一郎の運転する被告大内カツヨ所有の普通貨物自動車が原告箱崎俊之運転の普通乗用自動車に追突したもの。以下、本件事故という)により、原告車に乗車していた原告らが傷害を負ったとして、被告らに損害賠償を求めるものである。
本件事故が発生したこと、被告康一郎は被告車を運転し自己の用に供していたもの、被告カツヨはこれを所有して自己の用に供していたものとして、被告らが自賠法三条により本件事故によって生じた原告らの損害を賠償すべき責任があること及び本件事故による損害の填補として、原告箱崎俊之が九三万三三六三円、原告箱崎弘美が二二万四〇〇〇円、原告駒崎敏が九八万三〇〇〇円の各支払を受けたことはいずれも当事者間に争いがない。
そこで、本件の争点は、原告らの損害の算定に尽きるところ、この点につき原告らは以下のように主張する。これに対して、被告らは、本件事故は軽微なものであるから原告らの主張するような人身損傷が生じることは考えられず、又、仮に原告らが本件事故により頸捻挫等の傷害を負ったとしても、このように治療が長引くというようなことは考えられないと主張する。
一原告箱崎俊之関係
1 本件事故により頸椎捻挫、腰椎捻挫、腰椎椎間板ヘルニア等の傷害を負い、昭和六二年一月四日から同六三年二月五日までのうち二八七日間菅波病院に通院して治療を受けた。それによる損害は次のとおりである。
2 治療費 五二万五九二〇円(昭和六二年五月以降の分)
3 通院交通費 一三万七七六〇円(バス代往復四八〇円の二八七日分)
4 休業損害 一九一万三四二九円(本件事故当時、剥製工として一日当たり六六六七円の収入を得ていたところ、その二八七日分)
5 慰謝料 八〇万円
6 弁護士費用 三〇万円
二原告箱崎弘美関係
1 本件事故により頸椎捻挫、腰椎捻挫、右肩鎖関節挫傷、右第六肋骨骨折等の傷害を負って、昭和六二年一月四日から同年五月二三日までの一三九日間菅波病院に入院し、更に翌二四日から同六三年二月五日までのうち一九三日間同病院で通院治療を受けた。それによる損害は次のとおりである。
2 治療費 一一二万四七三〇円(昭和六二年五月以降の分)
3 入院雑費 九万七三〇〇円(一日につき七〇〇円の一三九日分)
4 通院交通費 九万二六四〇円(バス代往復四八〇円の一九三日分)
5 休業損害 一三二万八〇〇〇円(本件事故当時、いわき市立四倉中学校のPTA雇員として一日当たり四〇〇〇円の収入を得ていたところ、その三三二日分)
6 慰謝料 一四〇万円
7 弁護士費用 四〇万円
三原告駒崎敏関係
1 本件事故により頸椎捻挫、背部打僕、腰椎捻挫等の傷害を負い、昭和六二年一月四日から同年一〇月六日までのうち一五五日間菅波病院に通院して治療を受けた。それによる損害は次のとおりである。
2 治療費 一七万九六〇〇円(昭和六二年五月以降の分)
3 通院交通費 七万四四〇〇円(バス代往復四八〇円の一五五日分)
4 休業補償 一〇八万五〇〇〇円(本件事故当時、スナック店長として一日当たり七〇〇〇円の収入を得ていたところ、その一五五日分)
5 慰謝料 七〇万円
6 弁護士費用 一五万円
第三当裁判所の判断
一本件事故により原告らが負傷したか否か。また、その前提として本件事故による衝撃はどの程度であったものと見るべきか。
1 原告らが、本件事故によりその主張のとおり傷害を負ったとして、菅波病院で治療を受けてきたことは証拠上明らかである。
2 これに対し、被告らは前記のとおり主張し、その立証のために乙第一号証(工学士大慈弥雅弘作成の「鑑定書」と題する書面)を提出している。
(一) 近年、交通事故により被害者がむちうち損傷を負ったとされる訴訟において、同号証のような工学鑑定と称される手法を用いることにより、むちうち損傷の発生自体を否定する鑑定書が加害者側(保険会社)から提出されるという例を目にすることが少なくない。もちろん、当裁判所はこれら鑑定書の結論の当否を云々すべき立場にはないし、また、一般論としてこのような手法の有用性を否定するものでもない。ただ、そのためには、判断の前提となるべき事故状況その他に関する基礎資料が客観的な立場でできるだけ広く蒐集されることが必要であり、そのうえでこれが科学的かつ良心的な態度で分析されることが不可欠であるものと考えられる。しかも、このようにして得られた結論が仮にむちうち損傷の可能性を否定するものであるとしても、ことの性格上、それはあくまで判断資料の一つにすぎないというような控え目な態度が望まれるのであって、この種の工学鑑定のみをもってむちうち損傷の不発生を証明することができるなどとする考え方は余りにも機械的で十分な説得力を持たないものと言わなければならない。したがって、「これのみをもってむちうち損傷否定の論陣を張り、有無を言わせず被害者を押さえ込むような傾向」(<書証番号略>)が生じているとすれば、それに対して批判が加えられるのは蓋し当然である。
ところで、このような観点から乙第一号証及びその取り扱われ方を見るとき、まさに右に批判されているような憂慮すべき傾向を感じとらないわけにはいかない。当裁判所の見るところでは、同号証は後記(二)に指摘するような種々の問題点を孕むものであるのに、被告らにおいては安易にその結論に依拠して、原告らが本件事故により負傷することはないものと断じ、しかもこれを援用する内容証明郵便<書証番号略>を原告らに差し出すなどしているからである。
(二) 乙第一号証の問題点
(1) 同号証において展開されている自動車同士の衝突(追突)事故に関する力学的な一般論や添付資料はひとまず措き、本件事故の分析のための「鑑定資料」を見るに、それとしては①交通事故証明書、②自動車保険事故受付カード、③事故発生状況報告書(<書証番号略>)、④少年保護事件記録送致書(<書証番号略>)・実況見分調書(<書証番号略>)等、⑤両車の登録事項証明書、⑥両車の修理見積書(<書証番号略>)、⑦両車の衝突部位の写真、⑧医師古岡邦人作成の原告らの診断書が掲記されている。
右のうち④の実況見分調書「等」が果たしてどこまでの範囲を意味するのか必ずしも明確ではないが、後記(4)のように判断の前提となる事実が誤って把握されていることに照らせば、事故当事者である本件原・被告らの供述調書等が含まれているとは解し難いのである。そして、「本件事故により原告車の乗員の頸部や腰部への傷害は考えられない」とするその結論を導くに当たっては、「両車の衝突部位の変形状況」についての認識が重要な資料となっていることが明らかであるところ、その認識は主として両車の事故後の写真に基づいて得られたものであるといっても過言ではない。このように、本鑑定書は、事故当事者らの事故状況や受傷及び治療状況についての詳細な供述や説明を得ないまま、しかも、事故車両を実際に見分するということさえしないで作成されたものであって、全体として資料不足の感が強く残るものである。
(2) そのうえに、ここでは資料の検討不足も目につく。例えば、被告車の衝突時の速度について、本鑑定書では「過少評価にならないよう最大に見積もって約時速13.7キロメートルと推定される」とあるが、同鑑定人が参照した筈の(<書証番号略>)においては時速一五キロメートルとあるのに、その点が検討された形跡はない。また、③には両車のスリップ痕がいずれも0.5メートル印象されていたとあるのに、④の実況見分調書においては「路面にはスリップ痕等の痕跡は認められなかった」とあって食い違っており、この点は後記(3)のとおり追突時の衝撃力の大きさを判断するためには決して軽視できない点ではないかと思われるにもかかわらず、やはり格別の検討も加えられていないようなのである。
(3) しかも、本鑑定人が最も重視しているものと思われる両車の変形ないしは破損状況についていえば、⑥や⑦によれば一見したところそれが軽微なもののように見えることはそのとおりであるにしても、そもそも事故車の変形・破損の程度は事故による衝撃力の強さを割り出すための一要素にすぎない筈である(例えば、同じ衝撃が加えられても、被追突車に何らの制動もかけられていなかった場合には、それが比較的容易に前方に押し出されることにより衝撃力が減殺されるから、その変形・破損の程度ははるかに少なくなるが、乗員に加わる力はむしろ大きくなることが考えられる)から、ここから直ちに本件事故による衝撃が小さいものであったなどと速断することは危険である。
(4) 本鑑定書においては、被告車の乗車人員は被告康一郎一人であるとの前提で追突による衝撃力の大きさが計算されているのであるが、実際には被告車には相当多数の者が同乗していたことが証拠上明らかである(同被告は司法警察員に対する供述調書(<書証番号略>)中においては同乗者は六名であったと供述しているのに、その本人尋問の際には、乗車人員は本人を含めて八人であった旨供述するなどして定まらないのであるが、これらを総合すれば、少なくとも八人を下回ることのない人員が乗車していたものと認めるのが相当である)。
(三) このような諸点に照らせば、本鑑定書は単に資料不足というにとどまらず、かなり杜撰なものとの印象を拭い難いのであって、ひいては「はじめに結論ありき」との感さえないとは言えず、その結論の公正さそのものが疑われてくるのである。かくして、同号証には到底信を措くことはできないものと考える。
なお、この種の鑑定書が真に有用な訴訟資料たりうるためには、何よりもまずその作成に当たる鑑定人において職業的な良心に忠実であることが求められるということは既に指摘したところであるが、同時に、これを利用する保険会社とその代理人弁護士においても、鑑定書の内容を慎重に検討したうえで節度のある態度でこれを用いることが望まれるということを付言しておきたい。
3 次に、加害者である被告康一郎の供述するところを見るに、(<書証番号略>)等によれば、同被告は捜査官に対しては本件事故当時の被告車の速度を時速一五キロメートル位であったと供述している。ところが、本訴の被告本人尋問においては、これが「時速一五キロメートルを超えているということはありません」とあって、微妙に変化しているようにも見られないわけではないが、一応この点に関する供述はほぼ一貫しているものと見ることができよう。
(一) しかし、同被告の供述には、前記2の(二)(4)において既に触れておいた被告車の乗車人員の数についての供述の浮動性というような問題点があるほか、次のようないくつかの疑問もあるのであって、その信用性についてはかなり問題が残るものと見なければならない。
(1) 同被告が本件事故当時飲酒のうえで運転していたことは証拠上明らかであるところ、<書証番号略>によれば、同被告の飲酒検知の結果が呼気一リットルにつき0.20ミリグラムであったために酒気帯び運転とはされなかったのであるが、同被告は、中学時代のクラス会ということで前夜(午後九時)来飲酒していたもので、友達はかなり酔っぱらっていたこと(この点は同被告において自認するところである)、右調査の際、「このやろう、殺してやる」と罵声を浴びせるなど尋常な態度ではなかったこと(<書証番号略>等)などの事実に則して考えれば、同被告もかなりの量の酒を飲んでおり、その酔いの程度は必ずしも軽いものではなかったのではないかと疑う余地が残る。
(2) 同被告としては、このように酒を飲んだうえで本件事故を起こしてしまったわけであるが、その事実(特に、飲酒運転の事実)が発覚することをいたく恐れていたことが明らかに見てとれるのであり、そのために飲酒量を極力少なく、また事故の結果についてもできるだけ小さく述べようとする傾向があったのではないかと疑われるのである。したがって、同被告がその飲酒量につき捜査官に対して「ウィスキーの水割りを三杯」と述べていることに対しても、前記(1)のとおり飲酒時間が比較的長かったことなどに照らして疑問を抱かないわけにはいかない。それは、同被告が本訴の本人尋問においては「コップで二杯位」と述べるなど、この点の供述が少しも定まらないところからも窺われるのである。
(3) 同被告は、その作成にかかる事故発生状況報告書(<書証番号略>)に、両車ともに五〇センチメートル位のスリップ痕があったなどと記載し、また、本訴の本人尋問においてもその旨の供述を繰り返しているのであるが、実況見分調書(<書証番号略>)においては、そのような事実は明確に否定されているのである。これは、同被告が追突前にブレーキを踏んでいたこと及びそれと相まって本件事故の結果が極力小さいものであったことを印象づけるための供述ではないかという疑いが残る。
(二) このように、被告康一郎の供述の信用性には多分に問題があるものと言わなければならないから、追突時の被告車の速度にしても、「時速一五キロメートルを超えているということはありません」というのではなく、むしろ反対に右速度を下回ることはないものと認めるのが相当である。そして、仮に被告車が右の最低の速度である時速一五キロメートルの速度で追突したものであったとしても、原告車と被告車の重量の差が相当大きいこと(被告車の乗車人員を八人として、乙第一号証の計算するところによってこれを算出すれば、原告車一一九〇キログラムに対して被告車は一九四〇キログラムになる)などをも考慮すれば、被告らが言うように、本件事故の追突時の衝撃が甚だ軽微なものであり、原告車の乗員が頸椎捻挫等の傷害を負う筈がないなどと決めつけてかかるのは問題であり、原告らの述べる事故状況や負傷状況及びそれに対する医師の診断等をも考慮して慎重に検討しなければならないものと考える。
4 ところで、原告弘美はその本人尋問の中において、原告車が本件事故現場で赤信号に従い停止した際、同原告は同車を運転していた原告俊之に対してサイドブレーキを引いておくように注意を促したところ、俊之から「うるさいな、もう引いているよ」と言われた旨供述し、原告俊之も又、同所においてはサイドブレーキを引いたほかフットブレーキをも踏んでおり、これは追突後も踏み続けていたなどと供述するので、まずこの点から検討しておくこととする。
原告俊之はその本人尋問において、本件事故当時原告車の前にも約1.3メートル位の間隔をあけて停止車両があったところ、原告車は追突されて約三〇センチメートル位にまで前車に接近した(即ち、原告車は追突によって約一メートル前に押し出されたことになる)と供述しているが、<書証番号略>では、原告車は約六〇センチメートル押し出されたことになっているのであり、この点の正確な距離を認定することはできないけれども、いずれにしても、原告車が前車に追突することなく比較的短い距離で停止していることは間違いのないところである。なお、原告車はオートマチック車であるから、停止時にギアを「ニュートラル」に入れていたとは限らず、「ドライブ」のままにしていた可能性もある(<書証番号略>では「セカンド」とあるが、この点は疑問である)が、いずれにしても、原告車が何らの制動装置をも働かせていなかったとすれば、余程追突時の衝撃力が弱ければ格別、時速一五キロメートルの速度で重量の重い被告車(ワゴン車)に追突されたならば、それなりの距離は押し出されるものと思われる。然るに、前記のとおり原告車が比較的短い距離で停止していることに鑑みれば、原告車は自然に停止したのではなく、何らかの制動がかけられたことにより停止したものと認めるべきである。しかし、前記3の(一)(3)において見たとおり原告車のスリップ痕も印象されていなかったこと、追突されることを予期している場合であればともかく、追突後もフットブレーキを踏み続けていられるということについてはいささか疑問があることなどからすれば、原告俊之の述べるとおり、停止するにあたりサイドブレーキを引いたほかフットブレーキをも踏んでいたものと認めるにしても、追突されてフットブレーキははずれてしまい、サイドブレーキだけが効いたものと認めるのが相当である。
5 本件事故により最も大きな被害を受けたのは、本件事故当時、原告車の後部座席の中央部に乗っていた原告弘美であるとする点において、原告らの供述は完全に一致している。しかし、その具体的な負傷状況については、原告俊之が「原告弘美は運転席前部のカセットデッキのところまで飛び出してきた」と供述するのに対して、原告駒崎は「体が前の方に出てきたことまでは分かりましたが、私の体も前のめりになったので、それ以上は分かりません」と供述し、また、原告弘美は「運転席と助手席の間に右肩から倒れた」(<書証番号略>)、「腹をチェンジレバーにぶつけ、何かに頭をぶつけました。咄嗟のことで何に頭をぶつけたのかは分かりません」(本人尋問の結果)と供述しているのであって、必ずしも符号しているわけではない。そして、もしも原告俊之の供述するような極端な態様のものであれば、原告駒崎とてそれを認識しなかったということは考え難いのであり、そのほかにも次のような疑問が残る。
本件事故が追突事故であることを考えれば、被追突車の乗員が右のような動きをするような衝撃を受けるということについては一般論として疑問がないではない。もっとも、追突されたことによって被追突車の乗員の背中等が一旦シート部分に押しつけられたうえ、直後にその反動と一旦前に押し出された被追突車に制動がかかって停止することが相まって、身体が前のめりになるということも考えられることではある。しかし、後部座席の乗員が大人であれば、通常は運転席及び助手席のいずれかのシートの背もたれ部分に身体が衝突ないしは接触し、それによって前方向へと加わる力が減殺されるものと思われるから、追突の衝撃力が余程大きい場合以外には、原告俊之の述べるような事態はまず考えられないこととしなければなるまい。しかも、原告弘美と同様に原告車の後部座席に乗車していた箱崎信之及び仲井浩紀もともにシートベルトを着装していなかったにもかかわらず、「首が前後にガクンと振られ、首を怪我した」<書証番号略>というにとどまっていることと対比したとき、同原告のみがこのように激しい衝撃を受けたということはいささか奇妙なことと言わざるを得ない。即ち、同原告がこれ程の激しい衝撃を受けるというからには、本件追突事故による衝撃力が余程大きかったことになるから、右信之及び仲井においても前のシートの背もたれ部分に上体を打ちつけるというくらいのことはあるのが自然であるものと考えられるのに、そのような供述は全くないのである。同原告の供述するところによれば、同原告は進行方向左側にあるタクシープールの方を見ていたというのであるから、前方に正対していたわけではなく、しかも身体をやや前に乗り出すようにしていたことになり、その点で右信之らよりも衝撃に対する防御姿勢がとりにくかったことはあるであろうが、それにしても同じ後部座席の乗員にあってこれ程の極端な差異があることは不自然なこととしなければならない。
以上によれば、原告俊之及び同弘美の前記各本人尋問における供述を直ちに信用することはできない。しかし、原告駒崎の前記供述及び<書証番号略>中の原告弘美の供述記載並びに同原告が右肩鎖関節挫傷の傷害を負っていることをも考慮すれば、「同原告は運転席と助手席の間に右肩から倒れた」ということは認めることができる。
そして、被告康一郎はその本人尋問において、原告弘美が同被告の友達に「どこのチンピラだ」と言っていたと供述し、同原告の後記供述についてはそのような事実は見ていないと述べるのに対し、同原告は「私は気分が悪くなり、吐き気がしたので車から降りて前屈みになっていると、被告車に乗っていた人が『芝居するな』と言って私の胸ぐらを掴んだのです」と供述し、前記被告康一郎の指摘に対しては「そのようなことを言ったことは覚えていないが、胸ぐらを掴まれて興奮していたので、もしかすると言ったかもしれない」と述べていることなどを総合すれば、優に右のような状況があったものと認めることができ、これによれば同原告が事故直後から吐き気を催すなど気分が悪くなってしまったことが認められるものというべきである。しかも、同原告は結局同日中に菅波病院に入院する運びとなったこと、二日間位は眠り続け、その後も自分では自覚しないものの平衡感覚が悪くて真っ直ぐに歩けない状態だったなどとも供述しているのであるが、これらは全体として極めて自然なものであって、同原告がそのような症状があるかの如くに装っているとかの格別の事情が認められない以上、これらの負傷状況及び症状についての同原告の供述は信用することができるものと思われる。
6 以上を総合すれば、本件事故の追突時の衝撃は決して軽微なものではなく、むしろ相当大きなものであったと認められるのであり、したがって、原告車の乗員らがそれなりの負傷をしたであろうことは十分に認められるところである。
二原告らの治療の必要性について
前記一で見たところに<書証番号略>等を総合すれば、本件事故により原告らがむちうち損傷の傷害を負ったことを十分に認めることができる。そして、原告らがその主張のような傷病名により、いずれも菅波病院で治療を受けてきたことは既に認定したとおりである(もっとも、原告弘美の「右第六肋骨骨折」については、<書証番号略>等には確かにその旨の記載があるけれども、証人古岡邦人の証言によるもこの点は結局明らかではなく、思うに同原告から右胸部の痛みを訴えられて前記のような疑いをもったことがあるというにとどまるものとするのが相当であり、結局これを認めることができない)。
とはいえ、原告らの治療期間が余りに長きにわたっているのではないかとの印象は拭い難いものがあることも事実であり、しかも、証人古岡邦人の証言中には、古岡医師は原告らについていずれも相当早い段階で症状固定と判断するべきが相当であると考えていたが、同病院においては極端に医師が不足していて、整形外科は当時同医師が一人で診ているような状況であったために満足な診療もできず、また原告弘美ら患者からの愁訴を受けるとむげに治療を打ち切るというわけにはいかず、あまつさえ同病院の理事長等からの圧力もあって、結局そのような判断を示すことができないまま不必要な治療をずるずると継続してしまったかのような供述部分がある。このように、古岡医師の証言中には同医師の医師としての定見を疑わせるものや、或いはそれが事実であるとすれば菅波病院の医療機関としての適正さに疑問を抱かざるを得ない類のものさえあるのであるが、証人菅波郁の証言に照らせば前記古岡証言をそのまま信用するわけにはいかず、また、古岡医師の右のような証言の背景には「むちうち症の場合、大体の目安としては入院一週間、通院一か月、長引いても二か月」などとする余りに形式的な考え方があるのではないかと推察せざるを得ないのである。しかし、いずれにしても、自分自身が主治医として治療を継続しておきながら、今になって前記のような証言をして憚らないなどということは、医師として余りにも無責任な態度と評するほかはなく、したがって、このような同医師のもとで実施されてきた原告らに対する治療については、当然のことながらその必要性の有無や当否などについて疑問を抱く余地がないわけではない。即ち、同医師が医師としての主体的な判断を放棄したまま、ただ患者たる原告らの愁訴に引きづられて、それに対する対症療法的な治療を漫然と継続してきただけではないかという疑問であり、古岡医師の前記証言はそのことを自認しているかの如き感さえある。しかしながら、そもそもむちうち症にあっては、その性質上患者の自覚症状に基づく訴えに依拠して治療をするという傾向にならざるを得ない側面があることも事実であるし、右のような無責任極まりない古岡証言に基づいて、ある時期以降の原告らの治療が不要なものであったなどと断ずることも又できないものと言うほかはない。そして、原告駒崎が昭和六二年一〇月六日を最後に一旦通院治療を受けることを止めた後においても、再び首から腰にかけての痛みが出たとして、自費で受診していたこと(同原告の本人尋問の結果)もこのことを裏打ちするものである。仮に、原告らの症状が保険金目当ての詐病であるとか、いたずらに誇張されたものであるとすれば、このように自費で治療を受けるというようなことはまず考えにくいからである。
なお、<書証番号略>及び原告弘美の本人尋問の結果によれば、同原告は、昭和六一年七月二四日菅波病院で腰椎々間板ヘルニアの診断を受けて、以後暫く通院治療を受けたことが認められるけれども、これが本件事故後の治療にどのような影響を及ぼしたかということについては確たる判断をするまでには至らない。
三原告らの損害についての費目毎の個別的な検討
1 前記二において検討したところによれば、原告らの治療費についてはこれをその損害と認めるべきであり、<書証番号略>によれば、昭和六二年五月以降の各原告の治療費が、その主張のとおりの金額にのぼっていることが認められる。(原告弘美のそれは一一二万四八一〇円になり、同原告の主張するところを若干上回るのではないかと思われるが、その主張の範囲にとどめることとする。)
なお、原告弘美の入院雑費についてはその主張のとおり九万七三〇〇円と認めるのが相当である。
2 通院交通費については、原告俊之及び同弘美は父である勉之の車で通院したことが認められ(右各原告本人尋問の結果)、しかも、原告俊之の本人尋問の結果によれば勉之は肝臓が悪くて毎日のように菅波病院に通院していたのであり、同原告らはその車に便乗したにすぎず、特に通院交通費を要したとは認められない。
また、原告駒崎についても、その主張のように通院交通費を支出したことを認めるに足る証拠はない。
3 休業損害について
(一) <書証番号略>(原告俊之の休業損害証明書)及び原告俊之の本人尋問の結果によれば、同原告は中学校卒業来、勉之の経営する「いわき剥製標本社」で剥製工として稼働し、本件事故当時には月収二〇万円(本給一八万円、付加給二万円)を得ていたとある。
しかし、前記のとおり勉之は肝臓が悪くて毎日のように菅波病院に通院していたというのであるから、そのような「いわき剥製標本社」が果たして満足な営業をしていたのかさえ疑問がないわけではないし、また、<書証番号略>の記載は甚だおざなりなものであって(例えば、同号証には、同原告が本件事故により昭和六二年五月二一日から同年六月三〇日まで欠勤した旨の記載があるが、そのようなことはそもそも主張さえされていないのであり、そのうえ、右の記載は原告駒崎の休業損害証明書である<書証番号略>と全く同じであるというのもまことに不可解である)、これをどこまで信用してよいものか大いに疑問である。しかも、原告俊之は、「別の仕事もしてみたいと思い、平成二年四月からは弟信之の就職先で板金工として働きだした」と供述するのであるが、中学卒業後一貫して剥製工として稼働し、月収二〇万円もの収入を得ていたことが事実だとすれば、単に「別の仕事もしてみたい」というような動機で仕事を転ずるというのも直ちには信用し難いところである。また、以上のような疑問を一応措くとしても、毎日のように通院していた勉之でも仕事になっていたということになれば、原告俊之においても通院によって全一日の稼働が不可能になるとも速断することはできないであろう。
そうすると、原告俊之の休業損害をその主張のとおり認めることについては余りに疑問がありすぎるものと言うべく、他にこの点についての一定の事実を認定するだけの証拠もないから、結局、後記4の慰謝料を算定する際にでもこれを考慮することとするほかはない。
(二) <書証番号略>及び原告弘美の本人尋問の結果によれば、同原告は本件事故当時四倉中学校のPTAの雇員として月額八万円の本給を支給されていたこと、本件事故による入院が長期化したため、これを退職し(なお、<書証番号略>によれば、同原告は昭和六一年三月に退職金三六万円を支給されているのに、その後も月額八万円を支給されているところからすれば、同原告はおそらく四月から始まる一年間の契約期間で雇用されることになっていたものであり、但しその期間が更新されることがあるとされていたものであろう。したがって、ここに退職とは、本件事故後の昭和六二年四月からは更新されずに終わったということを意味するものと思われる)、平成元年四月ころからは別の職場で稼働するようになったことが認められる。
ところで、本件事故がなければ、必ず右契約期間の更新がなされていたものであるのかは必ずしも明らかではないが、同原告が前記のとおり現在も稼働していることに照らせば、特別のことがない限り同原告としては働き続け、月額八万円程度の収入は得ていたであろうと考えられる。そして、同原告が入院していた昭和六二年五月二三日まで稼働することができなかったのはもちろん、その後も同年八月末までの約三か月間についてはやはり稼働することができなかったものとして取り扱うのが相当である。しかし、その後は休業損害としてはこれを認めることはできない。
ところで、<書証番号略>によれば、同原告に対しては昭和六二年三月までの給与は全額支給されたことが認められるから、結局同年四月から八月までの五か月分四〇万円の休業損害を被ったこととなる。
(三) <書証番号略>及び原告駒崎の本人尋問の結果によれば、同原告は本件事故当時スナック従業員として稼働し、月収二一万円(本給一八万円、付加給三万円)を得ていたとある。しかし、<書証番号略>の記載については先に<書証番号略>について指摘したと同様の理由でこれをそのまま信用することができないものと言わなければならず、また、通院を余儀無くされたからといって直ちに全一日の稼働が不可能であるという前提に立ってこれを計算することも相当ではない。
そうすると、原告駒崎の休業損害をその主張のとおり認めることはできず、かといって、この点について一定の事実を認定するだけの証拠もないから、結局、後記4の慰謝料を算定する際にこれを考慮することとするのが相当である。
4 慰謝料について
原告俊之及び同駒崎については、前記3で述べたとおり、一定程度休業損害が生じているであろうことは確実であるのに、これを全く認めなかったことをも考慮に入れたうえで、その治療期間及び通院実日数などを考慮して、原告俊之につき一一〇万円、同駒崎につき九〇万円とするのが相当である。なお、この金額はいずれも右原告らが慰謝料として請求するところを超えているけれども、右のように休業損害の分をも見込んだものであるから、この点は問題とされるべきではない。
原告弘美については、入・通院期間及びその実治療日数などを考慮すると、同原告に対する慰謝料としては九〇万円と認めるのが相当である。
5 結論
以上によれば、原告俊之については治療費が五二万五九二〇円、慰謝料が一一〇万円、合計一六二万五九二〇円、同弘美については治療費が一一二万四七三〇円、入院雑費が九万七三〇〇円、休業損害が四〇万円、慰謝料が九〇万円、以上合計二五二万二〇三〇円、同駒崎については治療費が一七万九六〇〇円、慰謝料が九〇万円、合計一〇七万九六〇〇円がそれぞれ損害として認められる。
ところで、原告俊之が九三万三三六三円、同弘美が二二万四〇〇〇円、同駒崎が九八万三〇〇〇円の各支払を受けていることは当事者間に争いがないので、これを右各損害額から控除すると、原告俊之につき六九万二五五七円、同弘美につき二二九万八〇三〇円、同駒崎につき九万六六〇〇円となる。
なお、弁護士費用については、右の認定額及び本件訴訟の審理状況等に鑑み、原告俊之分が一〇万円、同弘美分が二五万円、同駒崎分が二万円の限度で本件事故と因果関係のある損害と認めるのが相当である。
(裁判官西理)